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300年の歩み

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社是

信用と知恵を売ろう
誠意と実力を見せよう
信頼と繁栄を得よう

桝谷木材株式会社は、これまで300年以上にわたり、吉野の木材に携わってまいりました。
今後とも、社是を忠実に守り、次の100年、さらにその次の世代へと繋いでいきます。

吉野の口役銀で328年

弊社の社歴を調査するにあたり、興福寺文書、興福寺被官、芳野氏文書、小川氏文書、大和史料、豊臣時代林業文書、
小川郷史、三箇院文書、大乗寺寺社雑事記、旗本辻子文書、奈良代官古文書、五条代官各古文書、東吉野村々史、
当家系図戒名帳、等諸々調査いたしました。
子供の頃から祖父や父母等から古いことは絶えず聞き、調べないといけないと思っていたため、
史料は絶えず蒐集しておりました。

私、桝谷嘉男の年もいよいよ最終の段階になりました。
もう親族の先輩もなくなりましたので、子や孫のために、立ち消えにならないうちにと思い報告します。

話せば永いことで、ご存知の方もたまにありましたが、ごく簡単に申しますと半士半農焼畑百姓の吉野の平野村の話です。

ここ吉野は、“神武天皇の軍をヤタガラスが先導した”との言われのある時代から天皇の行幸が多く、
また伊勢参りや参勤交代等々、何かと地域外からの人の出入りが激しい土地でした。
しかし不便・寒いからか住み着くことは難しかったのか、住まいの戸数は15~6世紀から変わらず、
平野村で大体130戸位でした。(勿論今はいずこも同じ過疎の村です)

当事は戦国の世の真っ只中。
天正15年(1588年)ごろ、伊勢から藤堂・畠山と地元は芳野氏・小川氏・興福寺等の鬩ぎ合いに、
京の御所の火事による三種の神器の一つ(神璽)の紛失事件に、と大和地方は大騒動でした。
その上に秀吉の大和統一や、刀狩りにと当事はもう大変であった頃、
小川氏落城後の城主(弘光氏)の死亡等小川氏の後始末にも大変時間が掛かっていました。
そんなややこしい真っ最中に、東吉野地域材の良さを認めてか吉野の地が豊臣の直轄に成るなど、
テンヤワンヤと大変な時であった事でしょう。

運搬手段が筏へと代わったこともあり、木材需要の増加に伴い針葉樹に不足をきたし、私どものご先祖も、
生活の手段としての人工造林に進まざるをえませんでした。
即ち永い年月植林をせざるを得ず、永い苦労の始まりでした。
村の共有林も分配され、永い月日の中で村民の中で生活能力にも変動を来たし村内有力者に山を手放していきましたが、
これも追い追い村外資本家へと流失していき、借地林業へと変わっていきました。
また、5人組や焼畑農業の間に世話をしてこの木材へ関わらざるをえず、村役としての新領主との折衝なども相まって、
相当な苦労の時代であったことでしょう。

それまでの山は“村の物”であり、村民の共有財産でしたが、
年を重ねる内にその権利を村内で売り買いするようになりました。
しかしそれも徐々に村外資本家地主の手に渡っていき、統制も取れなくなり複雑になって行きました。

そこで個人で、と言うことになり、正式に当家が木材に関わったのが元禄二年(1689年)。
商号を「桝屋(谷)」と届けをして、以後、吉野の口役銀(※番所・関所を通行する品物にかかる税金)は
個人で上納していました。
口役銀は以後、時代によって呼び方が変わりましたが、明治時代まで続きました。
口役銀は今の消費税に近しく、売り上げの10%でした。
口役銀があったからこそ、ご先祖様の歴史を裏付けることができました。

寛文11年(1571)銀3貫200匁
商号 桝屋(谷) 元禄2年 (1689年)届出

村では今でも商号は一般にマッシャと言われて居ます。この呼び名自体はもっと古いことでしょう。
余談になりますが、口役銀には木材は勿論、中には神棚や仏壇・建具までふくまれたとのことです。また、吉野は天誅組の終焉の地でもあります。

商号を届けてから328年
吉野の山とお客さんと口役銀のおかげで正確に調べることが出来ました。ありがとうございました。

平成26年11月3日 桝谷嘉男

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